LOGIN「……そういう意図が全くなかったとは言いません。ただ、判断を誘導するつもりではありませんでした」 宮坂さんは慎重に答えた。 少なくとも、全部否定するつもりはないらしい。 その正直さには少しだけ好感を持った。 でも。 それとこれとは別だ。「それなら、良い情報と同じだけ悪い情報も見せてください」 私は閉じた資料へ手を置いた。「利用者からの不満も、退去したテナントの理由も、地元から反対されていることがあるならそれも。残したい人の声だけじゃなくて、もう使わないと言った人の声も見たいです」 宮坂さんが黙る。 私は少しだけ言葉を選んだ。「私は、この施設を残したい人の代表じゃありません」 口にして、自分でも少しだけ胸の奥が動いた。 人の話を聞くことは大事だと思う。 数字に出ないものを無視したくないとも思う。 でも。 だからといって。 人の感情だけを代弁するために帝人さんの隣にいるわけではない。「人の話を見ることはあります。でも、人の話だけを見るわけじゃないです。赤字なら、その理由も知りたいです。残したいという声があるなら、逆に離れていった人が何を嫌だったのかも知りたい。全部見た上で、それでも価値があるのかを考えたいです」「……承知しました」「それと、帝人さんと私に違う情報を見せるのはやめてください」 宮坂さんがこちらを見る。「同じものを見た上で、違うところに気づくなら、それでいいので」 帝人さんは帝人さんの目で見る。 私は私の目で見る。 だから意味がある。 最初から見せるものを分けられてしまったら、それは別の視点ではなく、別の材料を与えられているだけだ。「分かりました。次回は全資料を揃えます」「お願いします」 話が終わり、宮坂さんが帰っていく。 私
週明けの午後。 帝人さんの執務室へ、新しい案件の資料が届いた。「東都アセット? 皇グループと取引ありましたっけ?」 表紙の会社名を見て尋ねると、帝人さんが資料を開いた。「不動産運用会社だ。直接の取引はない。今回が初めてになる」 地方都市にある大型複合施設の再開発案件。 築二十年以上。 商業区画の空室率が上がり、オフィス部分も設備更新が必要になっている。 東都アセットは施設を取得し、皇グループとの共同再開発を提案してきたらしい。「また再開発ですか。嫌ってわけじゃないですけど、最近多いなと思って」「金が動くところには案件も集まる」「帝人さんが言うと身も蓋もないですね」 帝人さんは気にせずページをめくる。「数字だけなら悪くない。取得価格は妥当だし、周辺人口も大きく落ちていない。駅からも近い。ただし、東都側の収益予測は強気だ」 一枚の資料がこちらへ向けられる。「商業区画の稼働率を、現在の六十八%から三年で九十二%まで戻す前提になっている」「結構上げますね」「ああ。しかも根拠が薄い。周辺再開発と人口流入だけで説明していて、どんなテナントを入れて稼働率を戻すのかも曖昧だ」「じゃあ、今の段階ではまだ判断できない?」「そういうことだ。来週、現地側も含めて説明を聞く」 それで話は終わった。 はずだった。 ◇◇◇◇ 二日後。「倉橋さん、こちらをご確認いただけますか?」 声をかけてきたのは、東都アセットから先に資料を届けに来た担当者だった。 三十代半ばくらいの女性で、名刺には事業開発部・宮坂とある。「帝人さんへの資料でしたら、こちらでお預かりします」「いえ。こちらは倉橋さんに見ていただきたい資料なんです。現地の利用者やテナントへのヒアリングをまとめました」 少しだけ嫌な予感がした。 最近、こういう「私にだけ」
庭から戻ると、リビングにはお茶の準備がされていた。「少し休んでいきなさい」 お母様に勧められ、私はソファへ座る。 帝人さんも向かい側の椅子へ腰を下ろした。 テーブルには紅茶と、小さな焼き菓子が並んでいる。「小春さん、好きなものを取ってね」「ありがとうございます」 どれにしようか迷っていると、帝人さんが一つを指した。「小春、それはやめておけ」「え?」「中に洋酒が入っている」 説明の札を見る。 本当だ。「よく分かりましたね」「前に酒の強い菓子は苦手だと言っていただろう」「……覚えてたんですか?」「ああ」 当然のように返された。 また。 こういうところだ。「小春さん」「はい?」 お母様がこちらを見ていた。「何ですか?」「いいえ?」「絶対何か思ってますよね?」「何も?」「その顔は何かあります」 お母様が笑う。「小春さん、帝人に似てきたわね」「どこがです?」「相手の反応を見て、すぐ追及するところ」「それは嫌です」「小春」「帝人さんは黙っててください」「まだ何も言っていない」 またお母様が笑った。 私は洋酒入りではない方の焼き菓子を取る。 帝人さんはもう自分の紅茶を飲んでいた。 本当に。 覚えていたこと自体を、何とも思っていないらしい。 ◇◇◇◇ しばらくして、お母様がカップを置いた。「そういえば帝人」「何です」「この前、小春さんと食事に行ったんですって?」 私は危うく手を止めた。「どこから聞いたんですか?」「帝人か
昼食のあと。 お母様に誘われて、私は庭へ出た。 帝人さんも一緒だ。 季節の花が並ぶ庭はよく手入れされていて、午後の日差しも柔らかい。「少し歩きましょう」「はい」 お母様が先に歩き出す。 私はその後を追った。 帝人さんも当然のようについてくる。「帝人」「何です」「あなたも来るの?」「なぜ来ないと思った」「小春さんと少し二人で話したかったのだけど」「俺がいて困る話なのか」「そういうところよ」 お母様が呆れたように笑う。「帝人さん」「何だ」「少し待っててもいいですよ」「なぜだ」「お母様が二人でって」「俺の母と小春が、俺に聞かせられない話をする理由が分からない」「全部知る必要はないんです」「小春の話なら知りたい」 さらっと言う。 まただ。 私は思わず視線を逸らした。 お母様がそれを見逃さなかったらしい。「あら」「何ですか」「何でもないわ」「絶対何かありますよね?」「ないわよ」 笑っている。 絶対にある。「帝人」「何です」「やっぱりあなた、少し向こうで待っていて」「嫌です」「即答するの?」「小春を置いていく理由がない」「置いていくって、庭の中ですよ」 私は思わず突っ込んだ。「それに、お母様と一緒です」「だから何だ」「危険性ゼロです」「危険の話はしていない」「じゃあ何ですか」「小春と一緒に来たんだから、一緒にいる」 困る。 本当に困る。 こういうことを、
土曜日の午後。 私は帝人さんと一緒に、皇家の本邸へ来ていた。 仕事ではない。 帝人さんのお母様から、昼食に誘われたのだ。「どうして私まで呼ばれたんでしょう」 車を降りながら聞くと、帝人さんは当然のように答えた。「母が小春に会いたいと言ったからだ」「それは聞きましたけど」「なら理由はそれだろう」「帝人さん、本当に疑問に思わないんですね」「小春に会いたいのは普通だ」「普通なんですか?」「ああ」 そこまで迷いなく言われると、逆に何も返せない。 最近。 こういう何気ない言葉が困る。「小春?」「なんでもありません」「またか」「今日は休日なので追及禁止です」「そんな決まりはない」「今作りました」 帝人さんが納得していない顔をしたところで、玄関の扉が開いた。「小春さん、いらっしゃい」 お母様が笑顔で迎えてくれる。「お招きいただいてありがとうございます」「そんなにかしこまらなくていいのよ。帝人だけだと面白くないから、小春さんも来てくれて嬉しいわ」「母上」「あら、本当のことでしょう?」「俺がいて面白くないとはどういう意味だ」「あなた、自分から面白い話をする?」「必要な話はする」「ほら」 私は思わず笑ってしまった。「小春まで笑うな」「すみません」「謝りながら笑っているぞ」 いつものやり取り。 そのはずなのに。 お母様が私たちを交互に見て、少しだけ目を細めた。「……あら?」「どうしました?」「いいえ」 笑顔のまま首を振る。「何でもないわ」 なんだろう。 少し
東央ソリューションズの正式提案は、予定どおり翌週に行われた。 会議室には、帝人さんと私。 皇グループ側の担当役員と情報システム部。 そして東央ソリューションズから相馬さんを含めて四人。 席につく前に、相馬さんと目が合った。「先日はありがとうございました」「こちらこそ」「本日は、正式な資料をお持ちしました」「はい」 少しだけ苦笑している。 机の上に置かれた資料は、前に私だけが見せられたものとは明らかに違った。 導入費用。 保守費用。 既存システムからの移行期間。 必要になる社内人員。 導入後の削減見込み。 想定されるリスク。 全部入っている。「今回は同じ資料だな」 帝人さんが言った。 相馬さんの表情が一瞬固まる。「……倉橋さんからお聞きになったんですね」「ああ」 余計な説明はしない。「では始めろ」 そこからは、いつもの帝人さんだった。「導入初年度の削減額が大きすぎる。移行期間中の二重運用コストをどこへ入れた」「こちらです」「三か月で終了する前提か」「標準ケースでは」「標準ではなく、遅延ケースも出せ。移行が半年かかった場合、回収期間が何年延びる」「試算しております」「なら最初から並べろ。うまくいった場合だけ見せても判断材料にならない」 相馬さんが資料を切り替える。 数字だけを見れば、提案そのものは悪くない。 むしろ、検討する価値はありそうだった。 でも私は、別のところが気になった。「この利用者アンケート、前に見せてもらったものと少し違いますよね?」 相馬さんがこちらを見る。「はい。今回は全体集計を掲載しています」「前は肯定的な意見がほ







